野口冨士男プロフィール

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生涯、文士として小さなことも見逃さずこだわり続けた野口冨士男。
その作品は、いぶし銀のように渋い。
けれども読み進むうちに珠玉の輝きを放つ。

『徳田秋聲傳』(毎日芸術賞受賞)『わが荷風』(読売文学賞受賞)に見られるひととおりでない作家研究。特に『徳田秋聲傳』は年譜作りから刊行まで15年をかけて、さらに15年をかけて『徳田秋聲の文学』を刊行した。一人の作家に30年という歳月をかけて取り組んだ真摯な姿は、すべての作品に貫かれている。
『感触的昭和文壇史』(菊池寛賞受賞)は広い交友関係の賜物であり昭和文壇の奥の奥までも描かれている。
『なぎの葉考』(川端康成文学賞受賞)『かくてありけり』(読売文学賞受賞)などの小説では、花柳界の情緒や都会の庶民生活の哀歓などを静かな粘着力のある文体で著している。

野口冨士男略年譜

明治

44年 東京市麹町に野口藤作・小トミの長男として生まれる。

大正

2年
( 2歳)
両親協議離婚。
5年
( 5歳)
父が渡支したため、養祖父母と静岡へ移住。
6年
( 6歳)
牛込区肴町居住の生母に引き取られる。
7年
( 7歳)
慶應義塾幼稚舎入学、同級生に岡本太郎、重松宣也。
のち重松に文学へ引き入れられる。
13年
(13歳)
3月、普通部に進学。父がK女と同棲(のち入籍)したため母と別れて赤坂に父と同居。
二年生ごろから旧友と回覧雑誌発行。
三年生ごろまで事業に失敗した父と駒沢付近の借家を夜逃げ同然に転々。

昭和

3年
(17歳)
4月、同級生の大半は4年修了で大学予科に進学。勉強嫌いで成績不良ではあったが、原級留めはまぬがれて5学年に進級。
年末、牛込区白銀町の営業下宿に止宿。
以後転居を重ねて両親のいずれとも居住したことがない。
4年
(18歳)
4月、文学部予科に進学。
築地小劇場を見て新劇ファンとなり、新劇評執筆の端緒となる。
5年
(19歳)
2月、普通部出身者のみの同人雑誌〈尖塔〉創刊。
3月、原級留めとなり廃学を考えていたとき幼稚舎以来の友・川手一郎のすすめで、5月末文化学院文学部に転校。
6年
(20歳)
10月、〈尖塔〉の残党と文化学院同級生により〈現実・文学〉(第1次)創刊。
8年
(22歳)
3月、文化学院卒業。
4月、〈文学青年〉(〈現実・文学〉の改称)創刊。
9月、阿部知二の推薦で株式会社紀伊国屋出版部(社長・田辺茂一)入社、雑誌〈行動〉を編集。
舟橋聖一、豊田三郎、十返一(肇)を知る。
9年
(23歳)
3月、〈現実・文学〉(第2次)創刊。〈行動〉編集者として徳田秋聲・一穂父子、岡田三郎に親近。
10年
(24歳)
9月末、紀伊国屋出版部が倒産。
10月、都新聞入社。
この年、秋聲の「あらくれ会」会員。
11年
(25歳)
5月、小暮亮、豊田三郎、高木卓、高橋義孝、福田恆存、桜田常久らと〈作家精神〉創刊。
7月、肺門淋巴腺腫脹のための都新聞社解雇。
12月、河出書房入社(翌年2月退社)。
12年
(26歳)
12月24日、東京民事地方裁判所において生母・平井小トミとの養子縁組訴訟勝訴。
13年
(27歳)
1月、以後、本姓が平井、筆姓が野口となる。
14年
(28歳)
3月、淀橋区戸塚町に転。
7月、同人誌友・山口年臣に乞われて青木書店嘱託となる。
15年
(29歳)
3月3日、埼玉県歯科医・亡早川三郎三女・直と結婚。
7月、『風の系譜』を青木書店刊。
12月、青山光二、井上立士、田宮虎彦、十返一、船山馨、牧屋善三、南川潤と「青年藝術派」結成(翌年4月活動開始)。
12月23日、長男・一麥(かずみ)誕生。
同月、高見順、平野謙、渋川驍、倉橋弥一と「大正文学研究会」結成。
16年
(30歳)
冬、〈現代文学〉同人となり大井廣介、荒正人、坂口安吾らを知る。
5月、『女性翩翻』を「青年藝術派叢書」として通文閣刊。
宇野浩二を中心とする「日曜会」会員となる。
17年
(31歳)
2月、全国の同人誌が8誌に統合〈新文学〉創刊、水上勉を知る。
春、麹町区に転。
4月、短編集「眷属」を大観堂刊。
5月、「日本文学報国会」発足、会員となる。
6月22日、次男・二生(つぎお)誕生(同月29日歿)。
秋、今日の問題社で「新鋭文学選集」が企画され、和田芳恵を知る。
18年
(32歳)
3月、『黄昏運河』を「新鋭文学選集5」として今日の問題社刊。
秋、徴用のがれのため実業教科書株式会社入社。年末、戸塚町の旧居に戻る。
19年
(33歳)
4月、同人誌が全国一誌に統合され〈日本文学者〉同人。
6月、大協石油に転社。このころから消化器疾患が昂じて通院。
9月、実業教科書に復社。
同月14日、海軍に召集されて横須賀海兵団入団、忽ち病兵となる。
20年
(34歳)
2月5日、栄養失調症のため横須賀海軍病院入院。
同月26日、湯河原分院転院中母急死。
4月5日、東京の留守宅強制疎開の命で取壊される。
8月24日、復員。
9月、妻子が借りていた借家の所有者が疎開先から帰京したため埼玉県越ヶ谷の妻の実家へ移居。
21年
(35歳)
12月、東京の旧宅址に家屋再建許可、整地開始。
22年
(36歳)
3月9日、戸塚町に新築の家屋へ戻る。
7月、『決定版・風の系譜』を東西文庫(金沢)刊。
23年
(37歳)
1月、〈文藝時代〉創刊(24年7月廃刊)。
同人となり八木義徳、芝木好子、椎名麟三、梅崎春生、北條誠を知る。
2月、日本文藝家協会書記局嘱託となる。
24年
(38歳)
2月末、日本文藝家協会嘱託を辞任。
5月、短編集『白鷺』を講談社刊。
8月、舟橋聖一を中心とする「キアラの会」結成。
同人として三島由紀夫(のち井上靖、源氏鶏太、吉行淳之介、有馬頼義らが加わる)。
25年
(39歳)
前年ごろからスランプを自覚。「徳田秋聲傳」執筆の基礎的考証段階に入り、以後の15年間は作家活動の休止期間(暗黒時代)となる。
28年
(42歳)
2月26日、事業に失敗した父が大島へ渡航の帰途、連絡船上から東京湾に入水自殺。
29年
(43歳)
2月、「耳のなかの風の声」を〈文學界〉に発表。
30年
(44歳)
夏、不眠症根治の目的で新宿区弁天町の晴和病院へ30日間入院、持続睡眠療法を受ける。
31年
(45歳)
12月、『いのちある日に』を河出書房刊。
33年
(47歳)
4月、日本文藝家協会評議員となる。『ただよい』を小壺天書房より刊。
11月、書おろしノンフィクション『海軍日記』を現代社刊。
12月、書おろし長編『二つの虹』を現代社刊。
35年
(49歳)
10月、「キアラの会」編集〈風景〉を創刊(51年4月廃刊)。初代編集長となり、ふたたび催眠剤を服用しはじめる。
38年
(52歳)
6月、右手母指腱鞘炎におかされて執筆にいちじるしい困難をおぼえ、以後諸種の治療を受けたが全治に至らず、持病となる。
40年
(54歳)
1月、『徳田秋聲傳』を筑摩書房刊。ようやくスランプを脱する。
41年
(55歳)
1月、『徳田秋聲傳』により第7回毎日芸術賞を受賞。
42年
(56歳)
3月、『日本ペンクラブ三十年史』を日本ペンクラブより刊。
43年
(57歳)
2月、「ほとりの私」(連作『暗い夜の私』中の一編)を〈風景〉に発表。
4月、日本文藝家協会理事となる。
44年
(58歳)
5月、日本近代文学館理事に就任。
12月、『暗い夜の私』を講談社刊。
45年
(59歳)
6月、日本著作権協議会理事に就任。
12月、西新橋の診療所で胃潰瘍と診断され、16日、港区神谷町の山口病院へ仮入院、22日、国立がんセンターに転院。
46年
(60歳)
1月29日、国立がんセンター石川七郎院長(普通部同級生)執刀にて胃潰瘍手術(2月12日退院)。
還暦を自祝して2階に仕事場を増築。
47年
(61歳)
3月3日、長男・一麥結婚。
6月、『徳田秋聲ノート』を中央大学出版部刊。
同月、日本文藝家協会新設の常務理事就任(10月、丹羽文雄理事長辞任にともない常務理事辞任)。
50年
(64歳)
5月、『わが荷風』を集英社刊。
51年
(65歳)
1月、「キアラの会」解散。
2月、『わが荷風』により第27回読売文学賞(随筆紀行部門)を受賞。
3月、編著『座談会昭和文壇史』を講談社刊。
53年
(67歳)
2月、連作長編『かくてありけり』を講談社刊。
5月、著作権保護同盟の評議員に就任。
6月、『私のなかの東京』を文藝春秋刊。
7月、日本文藝家協会に入会資格審査委員会(のち入会委員会と改称)が設置されて、初代委員長に就任(59年6月まで)。
10月、ヨーロッパ観光。初の海外旅行。
54年
(68歳)
2月、『かくてありけり』により第30回読売文学賞(小説部門)受賞。小説による初受賞。
8月、『徳田秋聲の文学』を筑摩書房刊。
9月、「なぎの葉考」を〈文學界〉に、10月、「散るを別れと」を〈文藝〉に発表。短編集『流星抄』を作品社刊。
55年
(69歳)
1月、「風のない日々」を〈文學界〉に連載開始(9月まで)。
4月、『散るを別れと』を河出書房新社刊。
6月、日本文藝家協会に副理事長制が新設されて就任。
同月、「なぎの葉考」により第7回川端康成文学賞受賞。
9月、短編集『なぎの葉考』を文藝春秋刊。
56年
(70歳)
4月、『風のない日々』を文藝春秋刊。
同月、長男・一麥と海外旅行。
5月、慶應義塾の特選塾員となる。
6月、最初のエッセイ集『作家の椅子』を作品社刊。
11月、『いま道のべに』を講談社刊。
57年
(71歳)
2月、エッセイ集『断崖のはての空』を河出書房新社刊。
6月、『相生橋煙雨』を文藝春秋刊。
同月7日、「作家としての業績に対して」第38回日本藝術院賞受賞。
8月、『新版・海軍日記』を文藝春秋刊。エッセイ集『文学とその周辺』を筑摩書房刊。
58年
(72歳)
3月、『誄歌』を河出書房新社刊。
59年
(73歳)
2月、宿痾の右手母弾断撥指におかされて執筆不能となり大森の安田病院に通院、約4ヵ月休筆のやむなきに至る。
3月、三田文学参与となる。
6月、日本文藝家協会理事長に就任。
11月、『わが荷風』中公文庫版刊。
60年
(74歳)
9月、海外旅行。
10月、エッセイ集『虚空に舞う花びら』を花曜社刊。
61年
(75歳)
6月、日本文藝家協会理事長に再選される。
7月、『感触的昭和文壇史』を文藝春秋刊。
10月1日、一麥とオセアニア旅行に出発。クライストチャーチ到着後、尿閉状態となり公立病院に入院。
旅程を中途放棄して帰国の途につき8日成田着。同日国立病院医療センターに入院。31日退院。
12月2日、『感触的昭和文壇史』により第34回菊池寛賞受賞。
62年
(76歳)
3月、妻・直、突如発病、国立病院医療センターに入院、病名不明のまま5月退院。
12月15日、日本藝術院会員となる。
63年
(77歳)
1月、「他人の春」を〈文學界〉に、2月、200部限定版の続田奈部豆本第5巻として『なぎの葉考』を同版元(和歌山県)刊。
5月、「紙の箱」を〈新潮〉1,000号記念号に発表。
6月、日本文藝家協会理事長辞任。同月、八木義德日本藝術院恩賜賞祝賀会のため室蘭へ行く。
同月末、妻・直と10年前から約束してあった道東の旅に出る。10月3日、妻・直、入院、18日退院。
11月、小学館版「昭和文学全集」第14巻に長短5篇収録される。
64年
(78歳)
1月、「坂の履歴」を〈文學界〉に発表。

平成

元年 2月、妻・直、入院、3月退院。
5月、『少女』を文藝春秋刊。
7月、肺癌のため国立医療センター入院。
8月1日及び11日の2度肺臓手術のため、左肺の機能停止。
同月、「横顔」を〈文學界〉に発表、10月退院。以後通院のほか家庭から外出する機会をほとんど喪失。
11月、『私のなかの東京』中公文庫版刊。
2年
(79歳)
9月、「しあわせ」を〈群像〉に発表。同月、短期入院。
11月、『しあわせ』を講談社刊。
3年
(80歳)
体調依然として整わず、短文以外の執筆はほぼ不能となる。
7月、『野口冨士男自選小説全集』上下2巻を河出書房新社刊。
5年
(82歳)
3月10日、妻・直死去。
遺作「残日余語」〈新潮45〉平成5年11月号に発表。
11月22日、野口冨士男、呼吸不全のため死去。護国寺にて日本文藝家協会葬。
6年 越谷市立図書館内に「野口冨士男文庫」開設。
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